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今日も穏やかな日和でした。山形市へ出る必要を感じて電車の時刻表を調べるとまだ1時間もありました。何だ自転車で行けば着いちゃうじゃないかと思いながら準備を始めたらあっという間に時間が過ぎて、駅に着いたら丁度時間となりました。山形市内は初売りの買い物客なのか結構人出があって賑わっています。以前あったはずなのにいつの間にか無くなってしまったお店に驚いたり、意外な発見があったりとなかなかに楽しい散策です。そして、環境が変わると思考回路も刺激を受けて回転を始めます。
「何が解らないのか解らない」
そんな風に思った経験はないでしょうか。
これって実はとても大切な事なのかも知れません。ふと、そう思いました。知らないと言う事を知っていないと、知らない事に気づけないのてす。
知っている立場から見れば他愛のない事実であっても、「知らない」と「知る」の境界線は時として途方もない難所となります。先人の発見した事を学んで理解したつもりになっていても、言うなれば、それは知識をなぞって真似ているだけかも知れないと思うのです。個人的に解らない事が解ったつもりになるだけです。学ぶ事。それが世界を知るきっかけになる事は間違いないでしょう。けれど、それで知ったつもりになってはいけないのだと…そう思うのです。恐らくは、先人すらまだ未知の真実があるはずです。生と死の謎すら解けていないのですから。
子供の頃「大人って何で解らないのだろう?」と思った事はないですか?子供の思考では全く難しくないまっすぐな事を大人は曲解し、子供の予想しない解を導き出すのです。そして解ったつもりになって悦に入る大人が理解できませんでした。今、その解らず屋の大人になって子供の頃の感覚を忘れてしまっています。シンプルで単純な事。真っすぐで淀みのない事に真実が隠れているのかも知れません。
いや、たぶん…隠れていないのでしょうね。
それでも真実を求めてしまうのは何故だろうって思うんです。
何処にもないと思いつつもまた探してしまうのは何故でしょう。
人は真実を求める中で新しいものを見つけます。
そして新しい出会いもあります。
そう考えると、その発見や出会いの為に真実を求める存在なのかも知れません。
つまり真実なんて何処にもないと言うことが真実なのかも知れないと思うのです。
夢や幻想は追い続ける為にあり実体は何処にもない。
追い続ける為に何処にもない真実が必要なのです。