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野菜がまた高値をつけているようですね。毎年のように天候不順を言われるようになっていますが、こうも天候不順が続くと、そもそも順調な天候って言うのはどうだったのかと解らなくなってしまいます。
雨でも猛暑でも田や畑の作物はダメージを受けます。そして丹精込めて作物を育てていた農家の方も労力が報われずダメージを受けることになります。考えてみれば、資本主義社会では数が少ないものは希少価値が上がります。もちろんただ少ないだけではダメで、その価値を見出されなくてはなりません。例えば山形名産サクランボは宝石とまで言われる程の美しさ、そして濃厚な甘味と酸味。これがなかなか真似できないと言う事で希少価値となります。対して山形で食べられている植物「ひょう(スベリヒユ)」はどうでしょう。山形県在住の方であれば、ひょうはお馴染みではないかと思います。折しもサクランボのアルバイトをした時に初めて口にしたのですが、食感はもやしのように癖のない食感でなかなかのものです。しかし、この「ひょう」という植物、所変われば雑草として草取りの対象となります。山形県内でも道端に繁茂していますから「希少価値」としてはかなり低いかもしれません。しかし、数が多くて珍しくないから希少価値が低いと言うのは、見方を変えれば安定供給が可能であることになります。世界では食べ物が不足して飢餓状態の地域があることを考えれば、食草が道端に生えていると言うのは贅沢なことと言えるかもしれません。これは、ひょうばかりではなく「ふきのとう」等もそうです。最近では、畑でもあまり見かけなくなって来た「ふきのとう」も地域によっては道端にびっしり花を咲かせます。それが都会に出れば、あきれる程の価格がつけられます。これもまた「希少価値」です。
商売をする上で「希少価値」や「付加価値」は、価格設定の大きなポイントになるのではないかと思いますが、たくさんあって珍しくないものは価値を認められないと言うのは大きな盲点になっているかも知れません。食べるものがたくさんあるのに餓死してしまう様なことになりかねないのです。流通が未発達だった頃、食べられるものは何でも食べていたでしょう。ひょっとしたらそれが貴重な栄養素を摂取する機会になっていたかも知れません。好き嫌いなく何でも食べる人であってもそれは恐らくスーパーに並んでいるものの話であって、道端に生えているものまで何でも食べることは意味していないでしょう。山形ではそんな古くからの習慣として多くの食習慣が残っています。この時期にはアケビが食卓に並ぶようになりますが、アケビの皮を食べる習慣は全国的にも珍しいでしょう。さらに隣県では保護対象になっているカタクリが山形では山中に咲きます。そしてそれを食べる習慣も残っています。山形では当たり前のように食べる春の山菜「こごみ」も所変われば高級食材です。豊かな食文化の中で暮らしていると美味しいものを食べるのは当然になってしまい、その価値すら見失ってしまいがちです。
環境について学ぶようになって半年。エネルギーにしても化石燃料には限りがあると言われます。それはいずれ希少価値という付加価値によって価格が高騰するであろうことを示唆しています。では「ひょう」のようにたくさんあるのに利用できていないエネルギーはないでしょうか。
現在調べている植物の成分は「C(炭素)」と「H(水素)」と「O(酸素)」がほとんどでした。つまり、植物は豊富にある材料を元に身体を作っています。ところが、人類の現代社会の構図は食物にしてもエネルギーにしても希少なものを消費して豊富に有り余るものを排出・生産しているのです。これを逆転出来れば、問題は大きく改善されるだろうと空想しますが、無理でしょうね。何故なら食卓のメインが「ひょう」という構図は多分誰も望まないからです。
ちょっと旅に出てまして久しぶりに覗いてみました。
昔、昔、アトランティスの人々は想い描いたことを何でも実現する能力を持っていたそうです。
長い年月の中でネガティブな想念がリミッターとなりその能力も退化し文明も滅びていったとか…
今地球はそのリミッターを外す波動が降り注いでいます。
想い描いたことがそのまま具現化します。
無理なことなんて何もないのですよ。
物事は思うように行かないから面白いのかも知れません。
負け惜しみですけどね。(笑)