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専門校ではエネルギー管理士やビル管理士、浄化槽管理士と言った環境関連の資格取得に力を入れて来ました。もちろん環境関連の資格は他にもあります。ただ、実務経験や経験年数が問題になる資格もあり、実際にはいきなり資格を取って就職を目指すのは無理のある場合もあります。そもそも資格が専門職の知識や経験を評価・認証するのが目的なのでしょう。
そんな中、ビオトープについて考えなくてはならない案件があり、ビオトープ管理士と言う資格を知りました。将来的にビオトープ管理士の資格で就職を目指す予定もなかったのですが、書店で「ビオトープ管理士 資格試験 公式テキスト」と言う出版物を目にしました。手に取ってみると予想外に興味深い内容で、資格取得を目指さなくても環境問題を考える上で良いのではないかと思いました。それで購入して帰り少しずつページを開いています。
そんな時「偽装と擬態」についての解説がありました。「擬装」は目立たない様にすることで「擬態」は目立つこと。「そうだったんだ???」と認識の間違いに気づかされました。そこでふと疑問を思ったのは、進化との関係性です。生物が個体で「ああなりたい」とか「こうなりたい」と念じてもすぐに進化出来るわけもありません。それは人間も同じです。仮に何世代にも渡って念じたことによって身体を進化させたのであれば、生命体は全てにおいて意志があり世代を超えて想いを伝える手段があるなんてことになりかねません。では何故生物は「擬装と擬態」を可能にしているのでしょう。
アマガエルの様に周囲の環境に皮膚の色を変化させる生物が存在することは知られています。アマガエルは一体いつ頃から何をきっかけにそんな進化を遂げたのでしょう。進化が生命の遺伝子上のギャンブルだとすれば、特定の方向性を持って進化する確率と言うのはどれほどのものなのでしょう。また遺伝子レベルの変化が全くのデタラメでないならば、その方向性は何によって決定されているのでしょう。蜂に似た容姿の蛾はデタラメに進化して蜂の様な容姿になったのでしょうか。デタラメでないならば進化の最終型は決まっているのでしょうか。系統樹によって説明される進化は一本の幹から枝を広げるかの様に表現されますが、その進化の道を辿る確率は非選択的であるのか、それともあらかじめ一定の方向性を持っているものなのでしょうか。
似通った二つの種類を比較する時、別々の進化を辿ったはずの種が同じ出口を目指している様な気さえします。例えば、昆虫同士の擬態を例にすれば、蜂も蛾も近縁であるなら似通った遺伝子を持っている可能性はあるでしょう。では、木の枝の様なナナフシや葉っぱの様なキリギリスや花の様なカマキリは一体どんな確率でその進化の道を辿ったのでしょう。無論、こう言った進化は昆虫だけに見られるものではありません。
子供の頃、枯れ葉の様に見えた蛾を知らずに触ろうとしたら突然飛んで行ってしまったので驚いたことがあります。ダンゴムシだと思って丸くさせようとしたらそれがワラジムシだった為に戸惑ったことがあります。どれだけ真似した様に見えてもマツタケモドキはマツタケではなく、蜂の様な姿をしたアブも蜂ではないのです。
生物が多様であることは、思い出せば思い出す程、考えれば考える程、不思議に満ちています。