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薄曇りの過ごしやすい日でした。久しぶりに時間が出来たので近所の川沿いを散策すると秋の花が咲き、蝶や蜂等の虫達が確認できました。草むらでは様々な植物がひしめき合っていますが、その中にアレチウリの実を見つけました。アレチウリは帰化植物です。初めて見た時には新しい野菜かと思ってしまいました。しかし、調べてみるとかなりやっかいな存在の様子で駆除するのが大変の様子です。川沿いの土手には既にたくさんのアレチウリが広がっています。
そんなことを言われたらどんな絵を描くでしょう。
植物と言ってもたくさんの種類がありますから、葉っぱのイメージも様々かと思います。ケヤキの葉っぱが紅葉して落ちていたので並べてみました。どうでしょう。葉っぱと言うイメージにぴったりではないでしょうか。葉っぱのギザギザのことを「鋸歯」(きょし)と言います。ケヤキの葉っぱはこの鋸歯が明瞭です。桜の葉っぱは鋸歯が複雑で「重鋸歯」(じゅうきょし)と言います。葉っぱのギザギザにさらに細かいギザギザがついています。そうしてみると葉っぱの形を観察するのも楽しくなるのではないでしょうか。さらに観察すると、ケヤキは葉っぱが枝に左右交互についています。これを「互生」(ごせい)と言います。左右対称についている葉っぱは「対生」(たいせい)と言います。もちろん植物の分類についてはさらに複雑です。でも、そんな風に考えながら落ち葉を観察するのも楽しいのではないでしょうか。
ソヨゴと言う植物があります。葉の縁が風にそよぐ様に波打っているからだと聞きますが、このソヨゴの変種にクロソヨゴと言う植物があると聞きました。なかなか見つからない希少種だと聞いていたので山へ入るとクロソヨゴを探す様になりました。ソヨゴは葉の縁が波打っていますが、鋸歯はありません。対してクロソヨゴは鋸歯があるというのです。不思議なことにソヨゴの樹を強剪定すると鋸歯のある葉が出てくることがあります。しかし通常の生育状態でソヨゴに鋸歯は出ないのです。やっぱりクロソヨゴを見つけることは出来ませんでした。ところがある時、葉っぱが対生になっているソヨゴの様な植物を見つけました。ソヨゴの葉っぱは互生のはずです。 「これは新種か?」と思ったら、確かネズミモチと言う植物でした。
落葉の季節になります。そんな風に豆知識を携えて散策するのもまた楽しいのではないでしょうか。
昨日は上山まで出かけましたが、体育文化センターの駐車場の樹は紅葉して落葉の時期を迎えていました。
今日は雲が切れて雨上がりの青空が見えました。時間に追われて日々を過ごしている間にも刻々と季節は移ろい変化しています。朝、少し時間があったので河原で花の写真を撮っていたら、キャンプをしているのかテントを張っている人が何人かいました。祝日だったので遊びに来ていただけかも知れませんが、過ごしやすい気候なのでアウトドアで楽しむには絶好の日和だったでしょう。猛暑だった夏も嘘のように遠い昔のことのようです。
「…エネルギーの総量は変わらない。」
だとすれば「エネルギーの消費」という言葉は適当ではないのかも知れないとふと考えました。総量が変わらないのですから、エネルギーは消費されるのではなく別のエネルギーに置換されるだけと言うことになります。そんな風にエネルギーが置換されるのであれば、消えてなくなる訳ではないのです。
そんな風に化石燃料も消費しているのではなく、二酸化炭素を生産していると考えることが出来ないでしょうか。不思議なことにそのエネルギー置換の作業は、多くの生命が必要とする酸素を利用して二酸化炭素を生産しているのです。光合成植物はエネルギーを獲得する為に光合成と二酸化炭素を利用します。人類が未だ為し得ないエネルギー置換を生命活動の柱にしています。これは人類に逆のエネルギー置換が可能であることを教えてくれているようです。
今日は、休講日でした。
充実した良い1日だったでしょうか。
夜になって雨が降り始めました。
野菜がまた高値をつけているようですね。毎年のように天候不順を言われるようになっていますが、こうも天候不順が続くと、そもそも順調な天候って言うのはどうだったのかと解らなくなってしまいます。
雨でも猛暑でも田や畑の作物はダメージを受けます。そして丹精込めて作物を育てていた農家の方も労力が報われずダメージを受けることになります。考えてみれば、資本主義社会では数が少ないものは希少価値が上がります。もちろんただ少ないだけではダメで、その価値を見出されなくてはなりません。例えば山形名産サクランボは宝石とまで言われる程の美しさ、そして濃厚な甘味と酸味。これがなかなか真似できないと言う事で希少価値となります。対して山形で食べられている植物「ひょう(スベリヒユ)」はどうでしょう。山形県在住の方であれば、ひょうはお馴染みではないかと思います。折しもサクランボのアルバイトをした時に初めて口にしたのですが、食感はもやしのように癖のない食感でなかなかのものです。しかし、この「ひょう」という植物、所変われば雑草として草取りの対象となります。山形県内でも道端に繁茂していますから「希少価値」としてはかなり低いかもしれません。しかし、数が多くて珍しくないから希少価値が低いと言うのは、見方を変えれば安定供給が可能であることになります。世界では食べ物が不足して飢餓状態の地域があることを考えれば、食草が道端に生えていると言うのは贅沢なことと言えるかもしれません。これは、ひょうばかりではなく「ふきのとう」等もそうです。最近では、畑でもあまり見かけなくなって来た「ふきのとう」も地域によっては道端にびっしり花を咲かせます。それが都会に出れば、あきれる程の価格がつけられます。これもまた「希少価値」です。
商売をする上で「希少価値」や「付加価値」は、価格設定の大きなポイントになるのではないかと思いますが、たくさんあって珍しくないものは価値を認められないと言うのは大きな盲点になっているかも知れません。食べるものがたくさんあるのに餓死してしまう様なことになりかねないのです。流通が未発達だった頃、食べられるものは何でも食べていたでしょう。ひょっとしたらそれが貴重な栄養素を摂取する機会になっていたかも知れません。好き嫌いなく何でも食べる人であってもそれは恐らくスーパーに並んでいるものの話であって、道端に生えているものまで何でも食べることは意味していないでしょう。山形ではそんな古くからの習慣として多くの食習慣が残っています。この時期にはアケビが食卓に並ぶようになりますが、アケビの皮を食べる習慣は全国的にも珍しいでしょう。さらに隣県では保護対象になっているカタクリが山形では山中に咲きます。そしてそれを食べる習慣も残っています。山形では当たり前のように食べる春の山菜「こごみ」も所変われば高級食材です。豊かな食文化の中で暮らしていると美味しいものを食べるのは当然になってしまい、その価値すら見失ってしまいがちです。
環境について学ぶようになって半年。エネルギーにしても化石燃料には限りがあると言われます。それはいずれ希少価値という付加価値によって価格が高騰するであろうことを示唆しています。では「ひょう」のようにたくさんあるのに利用できていないエネルギーはないでしょうか。
現在調べている植物の成分は「C(炭素)」と「H(水素)」と「O(酸素)」がほとんどでした。つまり、植物は豊富にある材料を元に身体を作っています。ところが、人類の現代社会の構図は食物にしてもエネルギーにしても希少なものを消費して豊富に有り余るものを排出・生産しているのです。これを逆転出来れば、問題は大きく改善されるだろうと空想しますが、無理でしょうね。何故なら食卓のメインが「ひょう」という構図は多分誰も望まないからです。
キンモクセイの香り漂う雨の中、たまった所用を片づけつつ街の中を歩いていると公園で目に止まった光景にちょっと考えさせられてしまいました。これは芸術家の仕事か、それともただのお遊びか、ブラックジョークの匂いを感じてしまいました。公園の樹はそれなりに長い歳月をその場所で過ごし、何らかの都合で伐られることになったのでしょう。公園ですからその何らかの理由も深い意味があったのかどうか定かではありませんが、とにかく伐られることになった訳です。その時に切り株を椅子にしたらどうだろうと誰かが提案したのでしょうか。それとも委託された業者の発案でしょうか。人間の都合で伐られる事になった樹が椅子として再利用されたと言う訳でしょうか。「…これはエコなのか?」としばし考えてしまいました。面白ければいいと言う意見もあるかも知れませんが、エコとエゴは紙一重であることがあります。それを指摘する問題提起としての演出なのかもしれないと考えたりします。
さて、調べものをしていると、どうしても見つけられない情報と言うものがあります。インターネットが普及した現代において情報は溢れんばかりに氾濫し何もかもが知り尽くされた様な感覚になることがありますが、その実、同じ内容の記述が複数ある割にその先の情報が見つからないこともあるのです。
情報の行き止まりです。
ここから先は、発表されていない事実が待っているのか、知られていない事実が待っているのか、はたまた誰も興味を持たない情報なのか。その情報の行き止まりまで進んだらそこからはインターネット以外の手段を用いる必要があります。図書館だったり、直接その道の知識人に意見を乞うと言うこともあるでしょう。しかし、自分が実験すると言う体験をする必要もあるのだと思います。情報収集や知識はその為の布石であり、事前調査と言うことになります。その体験の後に再調査をすると、不思議なことに別の情報が見つかったりするのです。
訓練校の講義で生物学の基礎を受講していますが、そのお陰で分子式に対する拒絶反応が少なくなっている様です。今日は植物の成分を調べていたのですが、その成分はほとんどがC(炭素原子)とH(水素原子)とO(酸素原子)で構成されていました。そこに不思議さを感じたのは、その組み合わせだけでどうして物質にバリエーションが出来てしまうのかと言うことです。CO2なら二酸化炭素、O2なら酸素、H2Oなら水です。この組み合わせが様々な物質として挙動に変化が起きると言うのは、実に不思議なことです。
希求とは、強く願い求めること。